津島市立図書館

文字の大きさ

企画展示「杉本健吉、津島を描く。」

掲載日:2019年01月12日

企画展示「杉本健吉、津島を描く。」全景

2019年で、杉本健吉が98歳で亡くなってから15年となります。
このたび「本物の杉本健吉の絵を多くの方に観て頂きたい」と、所蔵している方より作品2点をお借りして「杉本健吉、津島を描く。」を開催する運びとなりました。

今回の展示にあたり、杉本美術館には作品画像の提供をはじめ、多くのご協力を頂きました。あらためてお礼申し上げます。

この展示は2月末まで展開予定です。

津島を描いた画家・杉本健吉

杉本健吉さん

1905(明治38)年9月20日、名古屋市矢場町に生まれる。
父は人形浄瑠璃三味線師匠の杉本銀次郎。津島・名古屋・大垣・笹島と転校を重ね、津島第一尋常小学校(現在の津島市立南小学校)を卒業。愛知県立工業学校図案科を卒業後、図案家として鉄道会社のポスターなど商業デザインの仕事を手掛けた。
1925年、京都で岸田劉生の門下となり、翌年に「花」で春陽会初入選、1928年に津島町公会堂(橋詰町)で初個展を開催。1949年、東大寺観音院住職・上司海雲師の知遇を受け、奈良の風物を描いたことから“奈良の杉本”と評される。
1950年から週刊誌に連載された吉川英治作『新・平家物語』で挿絵を担当し、高い評価を受けた。
2004年2月10日、98歳で死去。今年、2019年は没後15年にあたる。

さて、杉本画伯は「リュック背負って、イーゼルを提げて」というスタイルで名古屋市瑞穂区の自宅から電車を乗り継ぎ、しばしば津島へスケッチに訪れていたそうです。
杉本画伯が描いたのは、天王川公園、津島神社、そして天王祭と、私たちにとって身近な、そして大切なものばかり。「第二の故郷は津島」と自ら語っていた杉本画伯が津島を描いた作品を幾つかご紹介します。

「津島天王祭」

「津島天王祭」1961年 キャンバス、油彩

「津島天王祭」

「津島神社社頭」製作年不詳 油、板

「津島天王川」

「津島天王川」1998年 紙、水彩

「津島天王祭」

「津島天王祭」1999年 紙、水彩

杉本健吉、もうひとつの“仕事”

今年で没後15年――「杉本健吉」の名前を知らない世代も多いかと思います。しかし、この地域に住む人なら、今も必ず杉本健吉作品を目にしているはず。

「見たことない」とは言わせません!“グラフィックデザイナー・杉本健吉”の作品をまとめて紹介します。

「青柳ういろう」ロゴマーク

名古屋のお土産といえば、「青柳ういろう」

「名古屋市営地下鉄」シンボルマーク

名古屋市営地下鉄のシンボルマーク

「名鉄タクシー」の車両

名鉄タクシーの車両

名鉄電車の車両の赤色「スカーレットレッド」

名鉄電車の車両の赤色「スカーレットレッド」

名鉄百貨店の旧ロゴ

名鉄百貨店の旧ロゴ
(2014年、開業60周年記念で復活していました)

杉本画伯が残した作品は、今も私たちの身近な場所で生き続けています。

ちなみに、このような「図案家」としての仕事は杉本画伯にとって“経済的な基盤”となったそうです。

「津島第一尋常小学校・卒業制作」について

「津島第一尋常小学校・卒業制作」

1918(大正7)年、杉本健吉13才の作品を少し解説してみましょう。

1.書を読む。

「津島第一尋常小学校・卒業制作」書

書には、明治天皇が日露戦争の開戦時に詠んだ御歌が書かれています。

国を思ふ 道にふたつは なかりけり 軍(いくさ)の庭に 立つも立ゝぬも

その意味は、「戦場に出て働くのも、国内に居て働くのも、国を思う道に何の変わりもない。めいめいがその職分を尽くすことが、忠節となるのである」というものです。

2.絵を観る。

杉本少年が描いた頃の「津島神社」の写真をご紹介します。
作品と写真を並べてみると、松や社殿など、特徴をとらえて描かれていることが伝わるかと思います。

13才の杉本画伯が描いた「津島神社」

13才の杉本画伯が描いた「津島神社」

1913(大正2)年・津島神社

1913(大正2)年・津島神社

明治後期・津島神社正殿前

明治後期・津島神社正殿前

津島第一尋常小学校

1.津島第一尋常小学校について

津島第一尋常小学校・校舎

津島第一尋常小学校・校舎

写真の校舎は1895(明治28)年に今市場町に竣工したもの。
1500円の建築費(その年の津島町歳入は約3300円)をかけた立派な校舎で、各地を巡察していた文部省次官から「日本一の小学校なり」と称賛を受けたというエピソードが残っています。

当時、津島第一尋常小学校は今市場町にありました。現在、南小のある常磐町へ移転したのは昭和13年のこと。日中戦争の只中での移転でした。

津島町地図(明治末~大正)

津島町地図(明治末~大正)

2.思い出を語る

さて、杉本画伯が小学校を卒業してから80年以上の時が流れ……
2000(平成12)年11月3日、津島市立図書館の開館記念事業として、母校・南小学校の体育館でトークショーを開催。市民ら約500人を前に「私の津島」と題して、小島廣次さんとの対談を披露しました。

津島市立図書館開館記念式典での杉本氏

御年95才の杉本画伯は小学校時代の思い出をこんな言葉で語っています。

昔、よく(絵の)張り出しをされて、それが嬉しくてね。子どもの時に張り出しをしてくれるのはねぇ、いいものだよ。 だから褒めなきゃだめだよ

「天王川公園」を歩く。

「天王川公園」

「天王川公園」は1933(昭和8)年、杉本健吉28才の作品です。
杉本画伯も歩いた懐かしい「天王川公園」。少し散歩してみましょうか。

天王川公園猿尾と北堤(明治後期)

天王川公園猿尾と北堤(明治後期)

杉本画伯が、少年時代に目にした風景に近い頃の写真がこちら。
明治時代の天王川は「公園」というイメージから程遠い風景ですが、それは当然!「天王川公園」は1920(大正9)年に開設。来年2020年に100周年を迎えます。

1921(大正10)年頃の津島天王川畔の桜 1921(大正10)年頃の津島天王川畔の桜

1921(大正10)年頃の津島天王川畔の桜

「天王川公園」が描かれた頃の写真。
こちらは現在の風景に近いでしょうか?

津島町切図(天王川公園付近)・ 1936(昭和11)年

津島町切図(天王川公園付近) 1936(昭和11)年

1936(昭和11)年の地図には、今はなき「町営運動場」や「動物舎」の名が!!
ちなみに「片岡春吉翁像」はこの年に建設されたものですが、1943(昭和18)年「金属類改修令」により接収。現在の像が再建されたのは1953(昭和28)年のことです。

2000年11月22日の中日新聞夕刊

こちらは2000年11月22日の中日新聞夕刊。天王川公園のクロマツが、松くい虫によって危機に瀕していることを紹介する内容が掲載されています。
この記事の中で杉本画伯は「手を尽くして枯れることは仕方ないが、手をこまねいていて枯れたら無念。」とコメントを寄せています。この時、杉本画伯は95才。「天王川公園」への熱い思いが伝わってきますね。

「画家」として生きる。

先程の地図を見ると、天王川公園北岸には、杉本画伯が人生初の個展を開催した「津島町公会堂」が確認できます。杉本画伯が人生で初めての個展を開催する場所は「天王川公園」の近くである“必然”がありました。

話は少年時代に遡ります。以下は、杉本画伯の評伝からの抜粋です。

『生きることは描くこと』書影

杉本は、小学校の帰り道や住まいの近くの風景を題材によくスケッチに出かけた。その折、津島中学校(旧制)の出身で、東京美術学校卒業後、文展や光風会で活躍していた洋画家の加藤静児の姿を度々見かけたという。ある時、スケッチで一緒になった加藤に思い切って画家になりたい思いを告げて助言を求めた。加藤からは「絵は趣味でやり、生活を支える職業は図案家として勉強しなさい」という言葉が返ってきた。それは画家を夢見る少年にとって予想もしない言葉であったと思われる。

『生きることは描くこと 杉本健吉評伝』木本文平/著 より

加藤静児氏の“助言”が、杉本少年の心にどの程度の重みを与えたかは分かりませんが、この後、愛知県立工業学校図案科に進学。図案家として順調に歩み始めます。 しかし、1923(大正12)年、洋画家の岸田劉生と出会い、その2年後に20才で入門。
“太陽を見るような感じがしました”と後に語った岸田劉生との出会いをきっかけに、「画家」として生きることを決意します。

「津島千本松原」1917年 油絵・板

「津島千本松原」1917年 油絵・板

「津島千本松原」は、小学校時代の作品です。加藤静児氏に出会ったのもこの頃でしょうか?
ハガキの1.5倍ほどの小さな作品ですが、油絵の特質である色を何層も重ねる画法が用いられていて、小学生の手によるものとは思えない出来栄えです。こちらは、現在も美浜町にある杉本美術館に所蔵されています。

1928(昭和3)年、23才になった青年・杉本健吉は人生初の個展を開催します。会場となった津島町公会堂の眼下には、少年時代に通った天王川公園が広がっていました。
ちなみに、この建物の1階は1935年に図書館となります。

津島町公会堂 外観

津島町公会堂(橋詰町)