津島市立図書館

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コーナー8『図書館体育祭』

そのとき初めて、私はスポーツの真の力を目の当たりにしたのです。(2013年IOC総会でのパラリンピック選手・佐藤真海さんのスピーチより)

今年は、6月にサッカー・ワールドカップがロシアで行われ、8月には夏の甲子園が100回記念大会を迎えます。
さらに来年、2019年はラグビー・ワールドカップが日本で開催、2020年には東京オリンピックパラリンピック……これから数年は大きなスポーツイベントが続き、当然世間で大きな話題となるはず。
津島市立図書館でもこのスポーツイベントの波に乗っかりたい、いや、あやかりたい!ということでスポーツをテーマにした特集を企画しました。選手の心に迫る自伝や、スポーツをテーマにした小説、トレーニング術など、スポーツにまつわる本を集めて紹介しています。
運動が好きなあなたも、体育の授業が嫌いだったあなたも、この夏は、図書館でいざスポーツ三昧!

  • 2018.06.19.
    サッカー・ロシアワールドカップ 日本 対 コロンビア

    今年6月、サッカー・ロシアワールドカップが開幕します。日本の初戦は6月19日。相手は、前回ブラジル大会で大敗したコロンビア。日本にとっては、今回も厳しい戦いとなりそうです。
    しかし、考えてみましょう。“日本中にプロのサッカークラブが誕生し、代表チームがワールドカップの常連となる”――ほんの数十年前に、そんな未来を口にすれば、“夢物語”と一笑に付されたはずです。日本サッカー界にとって、ワールドカップに初出場した1998年フランス大会から始まる歴史は、アジアの壁を打ち破り、世界の舞台に羽ばたいた“躍進”の時代と言えるはず。次の時代、さらなる高みを目指すためには、より険しい道のりが待っているのは、ある意味当然のこと。今大会、日本代表の前評判は決して高くはありませんが、それを覆す旋風が起こることを期待しましょう。

    チームを強くするのは、チームとしてプレーできる者だけだ。一人や二人の偉大な選手がいても、チームにはかなわない。偉大なチームとは、偉大な選手を抱えるチームではない。一丸となってプレーできるチームのことだ。

    『モウリーニョのリーダー論』

    サッカーの本

  • 2018.08.05.
    第100回 全国高等学校野球選手権大会 開会式

    大阪の豊中グラウンドで始まった、「全国高校野球選手権」は、兵庫の鳴尾、甲子園と球場を変え、“一スポーツ大会”を超えた国民的行事“夏の甲子園”に成長しました。大会は、戦争による中断を挟みながらも、今夏100回を迎えます。
    第100回記念大会は、史上最多の56代表校が出場。愛知県からも「東愛知」「西愛知」の2地区代表校が出場し、「始球式リレー」などのイベントも行われる予定です。開幕は、8月5日(日)。21日の決勝まで、どんなドラマが“夏の甲子園”で繰り広げられるでしょうか?
    今年も、日本に暑い夏がやって来ます。

    甲子園は天才も待っているが 甲子園は努力で磨いた普通を いちばん待っている 自分の汗の量を知る人 自分の涙の重さを知る人 自分の夢の大きさを知る人 自分の心の強さを知る人 そんな人を待っている それが 諸君たちだ

    『甲子園の詩 敗れざる君たちへ』阿久悠
  • 2019.09.20.
    ラグビー・ワールドカップ・ジャパン 日本 対 ロシア

    2019年に日本で開催されるラグビー・ワールドカップは、アジアではじめて開かれるラグビー・ワールドカップです。ここ愛知県でも、豊田スタジアムが戦いの舞台に選ばれています。
    前回、2015年イングランド大会初戦で、日本がワールドカップ2度優勝の南アフリカを34-32で破った一戦は、“ブライトンの奇跡”とよばれ、史上最大の番狂わせと言われました。あれから4年後の2019年――。前回大会は1次リーグで3勝を挙げながら、勝ち点差で決勝トーナメントに進めなかった日本が目指すのは“奇跡”を上回る成果。そう、初の決勝トーナメント進出です。過去4勝22敗2分けと世界を相手に苦戦してきた日本代表は、地元での躍進を期して強化を進めています。

    「ラグビーは真横か後ろにしかパスを放れない。前進したいのに、前へは投げられない。こんな難儀なスポーツは、なかなかないと思うよ」 宇田津は笑った。「後退しながら前へ進もうとする。まるで人生みたいじゃないか」 「なるほど」 二階堂は飄々とした目を窓の外へ向けると、それきり黙りこくった。

    『不惑のスクラム』安藤祐介

    ラグビーの本

  • 2020.07.24.
    東京オリンピック・2020 開会式

    2013年9月7日、アルゼンチン・ブエノスアイレスで開催されたIOC(国際オリンピック委員会)総会にて、2020年夏季オリンピック・パラリンピックが東京で開催されることが決まりました。
    1964年以来、56年ぶりに夏のオリンピック・パラリンピックが日本にやって来ます。2020年なんてまだまだ先だと思っていたのに、気が付けばあと2年。世界の注目を集める夏までのカウントダウンは、すでに始まっています。
    これまで、メイン会場となる新国立競技場の設計の問題や、エンブレム決定までの騒動が話題となってしまいましたが、ここでもう一度、「平和とスポーツの祭典=オリンピック」の原点に振り返るべきではないでしょうか?オリンピックは、競技に全てを賭ける選手たちのためにあるのですから。

    優れたプレゼンテーション、そしてスピーチには、必ず力強いストーリーがあります。けれど、ストーリーは特別な人生を送った人だけのものではありません。誰しもが、個人的なストーリーを持っているはずです。

    『世界を動かすプレゼン力 日本はこうしてオリンピックを勝ち取った!』
  • 2020.08.25.
    東京パラリンピック・2020 開会式

    「パラリンピック」の起源は、1948年7月にイギリスのストーク・マンデビル病院で行われた、車椅子使用者のためのアーチェリー大会「ストーク・マンデビル競技大会」です。この大会は、戦争で負傷した兵士たちのリハビリを目的としたもので、毎年開催されるうちに多くの賛同者が集まり、やがて国際大会となりました。
    “障がい者スポーツの父”といわれるグットマン博士の言葉に、「失ったものを数えるな、残された機能を最大限に活かせ」というものがあります。その言葉どおり、パラリンピックに出場する選手たちはみな、障がいがあっても、自分の可能性を諦めることなく、より高いパフォーマンスを求めて、挑戦を続けています。

    たとえ強靭な足を与えられても、ゴールに向かうのは己の心だ。それができなければ、この競技用義足も宝の持ち腐れにしかならない。走れ。走れ。走れ。腕を大きく振り、ストライドを大きくする。どうせちぐはぐな走りだから、フォームのことは頭にない。とにかく全力で走り切る。

    『翼がなくても』中山七里

    パラリンピックの本

  • 1957.08.14.
    津島商工・甲子園出場 津島商工-岐阜商業

    昭和32(1957)年の夏――。
    緊張した面持ちで甲子園球場を背に写真に写っているのは、県立津島商工高校(現在の津島北高校)野球部。
    この年、彼らは私たち津島市民の夢を乗せて、夏の甲子園出場を果たしました。
    今から61年前、そうずいぶん前のこと。
    でも、忘れられない夏の物語です。

    津島商工高校と野球部のあゆみ

    昭和26(1951)年 4月
    愛知県立津島工業高等学校、現在の津島文化会館がある場所に開校。
    昭和28(1953)年 4月
    商業科を併設して、愛知県立津島商工高等学校と改称。
    同年 12月
    津島市又吉町(現在の北高校がある場所)に校舎を移転。広大な土地にグラウンドが確保できたため、「軟式野球部」結成。
    昭和30(1955)年 4月
    野球部長に藤井政二氏を迎える。「硬式野球部」に切り替え。
    昭和32(1957)年 4月
    熱血漢の内藤昭八監督を迎える。
    同年 6月
    第4回春季全尾張高校野球大会・優勝。
    同年 8月
    愛知県高校野球大会優勝。甲子園出場。
    昭和51(1976)年 4月
    工業系の学科を切り離し(愛知県立佐織工業高校として独立)、津島北高等学校と改称、現在に至る。

    昭和32年7~8月の県大会・全国大会(甲子園)出場選手

    部長藤井政二54歳立正大学県下各校の野球部を28年間指導。
    監督内藤昭八24歳同志社大学情熱溢れる若き指導者。
    主将黒宮支朗3年木曽岬中学服部投手のライト転向により補欠となる
    投手8番安藤和彦2年佐織中学大会直前に正投手になったばかり。制球力抜群。
    捕手3番飯田賢一3年神守中学安藤投手を良くリードした
    一塁6番水谷敏麿1年八開中学県大会決勝戦では殊勲打
    二塁9番浅野兼治3年七宝中学堅実な守備が評価
    三塁1番橋本薫映2年祖父江中学県大会では毎試合安打で最多安打
    遊撃5番鯉淵進3年甚目寺中学県大会4回戦で9回逆転劇の立役者
    左翼7番鈴木弘2年甚目寺中学県大会5回戦を突破した立役者
    中堅2番坂井田隆行3年弥富中学「鳥人」といわれた程の好守備。
    右翼4番服部興一3年七宝中学元・正投手。直前に肘を痛めたためライト転向
    補一石原陸弘3年蟹江中学県大会の序盤で活躍
    補投加藤静2年天王中学全国大会で中山選手に代わって選手登録
    浅野忠男2年天王中学この大会では出場機会がなかった
    補投河竹次夫1年七宝中学3番手投手。今大会では出場機会がなかった
    中山孝2年弥富中学県大会では出場機会がなかった

    1957.07.22.
    地区予選2回戦 津島商工 19-3 惟信(豊橋球場)

    1 2 3 4 5 6 7 8 9
    惟信 0 0 2 0 1 × × × × 3
    津島商工 3 13 3 0 × × × × × 19

    1回戦は不戦勝だったため、この試合が初戦。
    惟信の先発・前田投手が絶不調。続く2人目投手の不調もあり、5回コールドの大勝。2回裏には、全員四球・全員得点の13点を挙げる記録も生まれた。
    ちなみに、この試合の津島商工の応援は鈴木PTA会長ただ一人だった。

    1957.07.27.
    地区予選3回戦 津島商工 3-1 起工業(鳴海球場)

    1 2 3 4 5 6 7 8 9
    津島商工 1 1 0 0 1 0 0 0 0 3
    起工業 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1

    1回表、1番の橋本選手が2塁打。その後、1アウト3塁となり、ホームスチールに成功。2回、5回にも追加点を重ねた。安藤投手の好投と起工業の走塁失敗もあり、勝利を収めた。

    1957.07.31.
    地区予選4回戦 津島商工 4-2 向陽(鳴海球場)

    1 2 3 4 5 6 7 8 9
    津島商工 0 0 0 0 1 0 0 0 3 4
    向陽 0 2 0 0 0 0 0 0 0 2

    2回裏、エラーから2点を向陽に献上。向陽の鬼頭投手は終始津島を圧倒したが、9回表に鯉渕選手の2塁打から反撃。送りバントで守備を攪乱し、3点を取って見事な逆転勝ち。

    1957.08.01.
    地区予選準々決勝 津島商工 4-1 一宮(鳴海球場)

    1 2 3 4 5 6 7 8 9
    一宮 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1
    津島商工 0 1 0 0 0 3 0 0 × 4

    一宮はDグループ最強豪との評判だったが、津島商工が一方的に試合を進める番狂わせを演じ、スタンドの大喝采を浴びた。6回には飯田選手、鯉淵選手のヒットと水谷選手の犠打フライで追加点。さらに鈴木選手の好打で3点目。
    この試合から津島市議団も応援に参加。応援旗がないため、この年作ったばかりの市章旗を振り回して声援を送った。

    1957.08.02.
    地区予選準決勝 津島商工 4-0 時習館(鳴海球場)

    1 2 3 4 5 6 7 8 9
    時習館 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
    津島商工 2 0 0 1 0 0 1 0 × 4

    試合前は「時習館の準決勝は妥当であるが、津島商工は予想外というほかはない」という評価だったが、津島商工が初回から強豪・時習館を圧倒する「大番狂わせ」。1回裏に先頭打者の橋本選手がヒット。飯田・服部選手の安打で2点を先制。4回、7回にも追加点を加え、時習館の戸田投手の速球を崩した。

    1957.08.03.
    地区予選決勝 津島商工 2-0 中京商業(鳴海球場)

    1 2 3 4 5 6 7 8 9
    津島商工 0 0 0 0 0 0 0 2 0 2
    中京商業 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

    安藤投手を中心にがっちりまとまったチームワークで津島商工が終始押しまくった。8回表、津島商工は飯田選手のヒットを足掛かりに水谷選手の安打で先制点。鈴木選手の安打と相手のエラーで2点目。この2点を守りきって見事に勝利し、甲子園出場を決めた。
    津島商工創立7年目、野球部発足から3年の快挙!おめでとう!!

    8月4日の中日新聞朝刊

    甲子園まで

    • 1.校歌がない!

      甲子園出場が決まった8月3日、津島商工は主催する朝日新聞社から校歌の提出を求められた。しかし、創立7年目の津島商工にはまだ校歌がなく、急きょ稲垣信全教頭が作詞を手掛け、津島出身のNHK管弦楽団の相羽実氏に作曲を依頼。8月4日夜には全て完成し、翌日提出した。こうした例は他になかったため、全国でも紹介された。甲子園の出場校が一晩で校歌をつくるという離れ業は、大会の歴史でおそらく初めてのことだろう。

      津島商工校歌

      木曽の流れに 培はれ
      伊吹の嶺に 励まされ
      ここ尾張野に 屹然と
      立てる学び舎 津島商工

      商と工とを 経緯に
      織り成す錦 一筋に
      たがへぬ願ひ 永遠に
      繋けし学び舎 津島商工

      希望の翼 商と工
      はばたくところ勤労の
      聖なる精神活かさんと
      誓ふ学び舎 津島商工

      津島商工・校歌の歌詞。一晩で作詞したとは思えない出来ばえ!!

      「校歌作曲にまつわる想い出・相羽 実」

      昭和32年8月本校野球部が中京商業を下して甲子園出場を決めたとき、大変なさわぎでした。(-中略-)教頭の稲垣信全先生が突然私のバイオリン、ピアノレッスン場(瑞泉寺津島幼稚園)に息をはずませて来られたのです。お話を聞いてみますと、甲子園出場に備えほとんどのものは用意できたが、校歌だけがどうにも出来ぬ、しかも明日朝日新聞社に提出しなければならないと言う急な話でした。校歌作曲と言えば2、3ヵ月ぐらいの余裕が有るのが普通で、これはえらい事だとびっくり。しかし緊急の場合でしたので、この名誉ある作曲の大任を引受けました。

      『愛知県立津島商工高等学校史』より
    • 2.女子応援団長、誕生

      県大会を進む中で、一宮戦から応援団を急ごしらえ。当初は応援歌がなかったため、「フレー、フレー」の掛け声のみだった。決勝前日の8月2日に応援歌を作成し、翌3日の午前中に練習。午後の決勝に間に合わせた。応援団も8月6日に正式に結成。団長は小林節子さんと立松喜代子さん。「女子応援団長2人」は、当時でも異色の存在だったと思われる。

      写真は津島駅前で応援を披露する津島商工応援団。見よ、この勇姿を!

    • 3.期待高まる津島市民――

      甲子園出発前日の8月7日、天王川公園にて、津島市を挙げての壮行会が行われた。出発日の8月8日は、必勝を祈願して津島神社へ参拝した後、朝日新聞社のニュースカー・ニューポリーに乗って天王通りを行進。津島駅前では、今はなき“津島駅前広場"を埋め尽くした津島市民の熱烈な見送りを受けた。

    • 4.実は、旅館は……

      8月8日夕方、津島商工野球部は甲子園に到着。そのまま球場を見学し、その後宿舎の富士旅館へ。この富士旅館、実は決勝の対戦相手・中京商業が県大会優勝を確信し、早くから予約していた宿舎だった。つまり、津島商工は宿舎の予約を中京商業から譲り受けたのである。

      写真は富士旅館前にてポーズを決める野球部員。

    • 5.まさかの組み合わせ抽選!

      8月10日、甲子園の組み合わせ抽選会が行われた。
      抽選会前日に“茶目っ気十分”の1年生・水谷選手が「優勝候補の早実か岐商に会いたいなァ……。一回戦を勝てば優勝だョ」と皆を笑わせ、新聞にも掲載される。そして当日、水谷選手の予言どおり(?)、一回戦で岐阜商との対戦が決定!

      組み合わせ決定を報じる新聞

      水谷選手のコメントが皆を笑わせる。しかし……

    1957.08.12.
    開会式

    入場行進が行われ、黒宮主将以下、登録選手14人が堂々と入場行進を果たした。

    1957.08.13.
    大応援団出発

    8月13日夜10時、津島市から観光バス30台の大応援団が甲子園に向けて出発。市民の応援申込は定員を大幅に超え、断るのが大変だったという。
    バス代は入場料込みで1人700円。鉄道利用者を加え、応援団は1500人以上に膨れ上がった。14日午前6時、観光バス30台は350㎞を走破し、無事に甲子園球場に到着。

    1957.08.14.
    全国高等学校野球大会1回戦 津島商工 0-7 岐阜商業(甲子園球場)

    1 2 3 4 5 6 7 8 9
    津島商工 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
    岐阜商業 0 0 0 2 4 0 0 1 × 7

    優勝候補の岐阜商相手にどこまで食い下がれるかが注目されたが、津島商工の安藤投手はカーブにキレがなく、高めの球を狙い打ちされた。対する岐阜商は打っては毎回安打、守ってはエース清沢投手が絶好調。
    津島商工打線はノーヒット・ノーランに抑え込まれ、完敗を喫してしまった。選手も応援団も、出来たばかりの校歌を一生懸命に練習して甲子園に臨んだが、一度も校歌を歌うことなく敗退してしまったのである。

    1957.08.15.
    津島への帰還

    津島商工野球部は午前11時40分の特急列車に乗り、帰路に就いた。午後3時、津島駅に到着。すっかり日焼けした野球部員たちを家族、級友、そして津島市民が出迎えた。一同はそのまま津島市役所へ挨拶に立ち寄り、竹内市助役からは「敗れたとはいえ、郷土津島の名を全国にあげて下さったナインに厚く感謝する」と温かい言葉を送った。その後、津島神社に参拝して帰校。市の肝煎りで心尽くしの夕食会で甲子園の思い出を語り合った後、解散。懐かしのわが家に引き揚げた。


    天王通りを進む津島商工野球部
    津島市役所にて労いを受ける

    その後の津島商工野球部

    昭和32年以降も藤井監督と内藤監督の熱心な指導は続けられ、津島商工野球部は愛知県の強豪校として知られるようになった。昭和36(1961)年・39(1964)年の愛知県大会はベスト4、40(1965)年大会の愛知県大会では決勝戦まで勝ち進んでいる。しかし「2度目の甲子園」の夢が叶うことはないまま、昭和51(1976)年に工業系の学科を切り離し(愛知県立佐織工業高校として独立)、津島北高校と改称した。