まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。(司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』冒頭の一文より)
平成30年は、明治維新から150年を迎える年に当たります。
江戸から明治へと移り変わる激動の時代、当時の人達は何を考え、どのように生きたのか?
その姿には、今を生きる私たちが未来を考えるヒントがあるかもしれません。
一.「西郷どん」を読む。
今年の大河ドラマは西郷隆盛が主役をつとめる「西郷どん」。
幕末を舞台としたこのドラマはこれから、長州征伐、薩長同盟、大政奉還、戊辰戦争、そして西南戦争へと、歴史的な大事件が続きます。
ドラマが佳境に突入する前に、本を読んで「西郷どん」の世界を予習してみませんか?今後ドラマに登場する予定の人物の本も紹介します。
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西郷隆盛(さいごう たかもり)
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坂本龍馬(さかもと りょうま)
- 『竜馬がゆく(1)~(8)』 司馬遼太郎
- 『龍馬史』 磯田道史
- 『ゆけ、おりょう』 門井慶喜
二.新選組、奔る!
幕末のヒーローといえば、動乱の幕末を駆け抜けた最強の武装集団・新選組。その出発点は、若者たちが「武士になる」という夢を抱いて京都へ上り、浪士組を結成したことでした。やがて「新選組」の名を冠せられた彼らは、幕府の手先として得意の剣をふるいます。
しかし、時勢は彼らに味方せず幕府は瓦解。新選組は結成わずか5年で追われる立場となり、隊士の多くは悲劇的な最期を遂げました。
映画やドラマ、小説に漫画、さらにはゲームの世界でも語られる彼らの物語。今もファンが増え続けているその魅力に触れてみましょう。
三.誇り高き敗者たち
大河ドラマ「西郷どん」は薩摩・長州藩側から描いた明治維新の物語です。しかし「明治維新」は「幕府瓦解」でもあります。長州、薩摩、土佐、会津、そして幕府には、それぞれの「正義」がありました。現代の価値観で当時を裁くことはできないでしょう。
人間は自分に都合よく歴史を解釈し、良い部分だけを膨らませて語りがちですが、現代は情報を自由に集めることができます。勝者と敗者、どちらの側からも明治維新を客観的に眺められる、よい環境にあるのです。明治維新のアナザーストーリー、こちらにも注目してみましょう。
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徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)
- 『最後の将軍 徳川慶喜』 司馬遼太郎
- 『正妻 慶喜と美賀子(上・下)』 林真理子
- 『微笑む慶喜 写真で読み解く晩年の慶喜』 戸張裕子
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天璋院篤姫(てんしょういん あつひめ)
- 『篤姫の生涯』 宮尾登美子
- 『天璋院篤姫の生涯 篤姫をめぐる160人の群像』
- 『幕末の尼将軍―篤姫』 童門冬二
四.カメラは撮らえた。
「幕末」という時代は、日本史上はじめて「写真」という形で当時の情景や人物が残された時代。日本にはじめて写真機が伝わったのは、1848年とされています。日本人によって写された写真で今も残っている一番古い写真は、「西郷どん」でもお馴染みの薩摩の殿様・島津斉彬を写したもの。また、「写真家大名」とも呼ばれた尾張藩最後の藩主・徳川慶勝は、西洋から渡来したばかりの写真術に着目し、数多くの写真を遺しました。
写し出された幕末の写真を見ていると、この時代がより躍動感を持って身近に感じられます。ぜひ、ご覧下さい。
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徳川慶勝(とくがわ よしかつ)
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人物を撮る。
五.海を越えて――。
幕末、仲間と漁に出た土佐藩の少年が遭難し、無人島に漂着。約150日間のサバイバル生活を生き抜いた後、アメリカの捕鯨船に救助されました。少年は船に残る決意をし、後にアメリカへ渡り教育を受けることになります。彼の名はジョン万次郎。帰国後は、幕臣としてペリー来航時に通訳をするなど開国に尽力しました。また、幕末期には「遣米使節団」として勝海舟や福沢諭吉らを乗せた咸臨丸が渡米。さらに伊藤博文らが欧米に留学し、帰国後は明治新政府の中枢で活躍します。一方、西洋化を進める明治政府は、技術者や学識者ら「お雇い外国人」を招聘し、積極的に先進文明や技術を取り入れます。彼らから教えを受けた日本人学生の中には、新渡戸稲造や内村鑑三の姿もありました。
日本から旅立った者、日本へと旅立った者。彼らは、海を越えた先に何を見たのでしょうか?
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ジョン万次郎(まん じろう)
- 『ジョン・マン』 山本一力
- 『ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂』 マーギー・プロイス
- 『ジョン万次郎漂流記』 井伏鱒二
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伊藤博文(いとう ひろぶみ)
- 『伊藤博文 近代日本を創った男』 伊藤之雄
- 『伊藤博文邸の怪事件』 岡田秀文
- 『シュンスケ!』 門井慶喜
六.文豪誕生
江戸から明治へ時代が移り、「文豪」が誕生しました。夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、そして正岡子規。
彼らの作品が今もなお読み継がれているのは、そこに今と変わらない人間の姿が描かれ、何より作者本人に魅力があるからでしょう。
ところで、漱石の小説『三四郎』には、こんな一節があります。主人公の三四郎が上京する電車で、髭のある男に話しかけられる場面です。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」 と(三四郎は)弁護した。
すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」 と言った。
急速に近代化・西洋化を進める日本への、漱石からの警告だったのでしょうか?
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夏目漱石(なつめ そうせき)
- 『漱石の思ひ出』 夏目鏡子(述)・松岡譲(筆録)
- 『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』 坪内祐三
- 『漱石漫談』 いとうせいこう・奥泉光
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正岡子規(まさおか しき)
- 『坂の上の雲』 司馬遼太郎
- 『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』 伊集院静
- 『兄いもうと』 鳥越碧
七.文明開化の音がする♪
「散切(ざんぎり)頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」。明治の「御一新(ごいっしん)」により西洋の文明が一挙に日本に入り込み、文明開化は驚くほどのスピードで進んでいきました。なかでも、「牛鍋」や「ライスカレー」「あいすくりん」などの新しい食べ物に、当時の人たちは強く憧れたそうです。日本人の「食」への情熱は、今も昔も変わらないものですね。
一方で、明治政府は国の財政を豊かにするための産業保護育成政策のもと、国が直接経営する官営工場を全国に建設。1872(明治5)年にフランス人技師を招いて、群馬の富岡で操業を開始した富岡製糸場は、官営工場のお手本とされました。絹産業の近代化に貢献したことなどが評価され、「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、2014年に世界遺産に登録されました。
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富岡製糸場
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グルメ
- 『食道楽』 村井弦斎
- 『西洋菓子彷徨始末』 吉田菊次郎
- 『アイスクリン強し』 畠中恵
八.その頃、津島は?
さて時代は、江戸から明治へと大きく変化していきますが、その頃の津島はどのような時代を迎えていたのでしょうか。
ここからは、趣向をガラリと変えてご紹介します。
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幕末・維新の時代の津島から、時空を超えてレポーターに中継してもらいましょう。
おやおや、何だか大騒ぎになっていますよ。レポーターのフジヱ※1さん、聞こえますか? -
聞こえとるわ。どえらい※2がね。
え、「まいく」?こう手に持っとりゃぁいいんかね、あんた。
こんなもんで大きく聞こえるんかね? - 本題へ
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あぁ、そんなことより、おみゃーさん大変だがね。
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はい、何が起こりましたか?
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いろいろあったもんで、「ふりっぷ」にまとめたがね。
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維新・津島事件ファイル
- 明治天皇が津島に!?
- 燃やされた仏像
- あかだ※3、大ピンチ!
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あぁ、意外にも準備がいいんですね。えーっと、まず……
「明治天皇が津島に!?」ですか?
フジヱさん、どういった状況だったか、詳しく教えて頂いてもよろしいですか? -
意外にも、とは失礼な男だわ。
まぁ、ええわ。これは大事な「あるばいと」だもんで。
はいはい、では詳しゅう説明するがね。 -
明治天皇が津島に!?
明治の初め、天皇陛下が佐屋路(佐屋宿~熱田宿)を通過されることとなり、この御一行を迎える準備のため海部地域も嵐のような慌ただしさとなりました。
中でも、多くの逸話を残したのが、明治元年12月18日のこと。熱田宿、神守宿を経て、津島御用所を出発した御一行は、その日のうちに佐屋から海路で桑名へ向かう予定でした。ところが天候が急に悪くなり、急遽佐屋で宿泊することになったのです。佐屋は大慌てで、隣村の日置村へもフトンを持ってくるよう要請しました。
ところで、日置村では村の若者衆のウドン打ちがたいそう上手との評判がありました。フトンの要請を受けたとき、村の責任者は「それ見よ、わしんとこのウドンのエエことは禁裏様まで聞こえとるに」と喜びました。すぐに若者衆を呼び集め、自慢のウドン60数枚を打ち上げ佐屋の本陣へ献上しましたが、もちろん本陣ではちんぷんかんぷん。ようやくフトンとウドンの間違いだったことに気づくと、御一行を含めて大笑いになったということです。
なお、海部地域では小麦の生産が多く、明治以降は「重箱うどん」として名物になっています。
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そんなわけで、津島は大騒ぎだったんだわ。
まぁ、このへんの人は昔から、うっかり者だわ。
「ふとん」と「うどん」って。ひゃっひゃっひゃっ(笑)。どうして間違えるんかね。 -
そうですね。なるほど、大変よく分かりました。
さて、次は何だか恐ろしそうなタイトルですね。
「燃やされた仏像」、詳しくお話しください。 -
はいはい、では説明するわ。
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燃やされた仏像
津島神社には古くから仏教施設も複数あり、江戸時代には「津島牛頭天王社」として人々の信仰を集めていました。
とりわけ、本地堂の薬師如来像は疫病退散や病気平癒のシンボルであり、ここが人々の信仰の対象となっていたのです。明治元年、明治政府は「神仏分離令」を発令。
11月、津島牛頭天王社から取り除かれた仏像・仏典・仏具を下新田の佐屋川原へ集め古布で覆い、次々火の中へ投げ込んで焼き捨てました。日頃牛頭天王を信仰していた地元の住民は、この紅蓮の炎を見て涙を流したと伝えられます。明治2年2月7日には「津島神社」と改称。
時は流れて大正8年、世界中で流行した「スペイン風邪」が津島で猛威をふるった際に津島神社のある地区の被害が最もひどかったため、「牛頭天王様を怒らせた祟り」と考える人も多かったといいます。果たして…?! -
本当におそがい※4が。津島神社には毎日行っとるのに知らんかったわ。
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おや、ご存知なかったのですか?
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私ら、お参りにござった人しか見とらんもん。
あかだ買うてくれる人、探さなかんもんで。
ひゃー、びっくりだわ。悪いこと起きんとええが…… -
大丈夫ですよ、今も津島はありますから。
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ほんなら良かったがね、あんた。心配したわ。
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「賑わっている」とは正直言えませんが……
財政難※5ですし、人口も減っていますし…… -
やっぱり、おそがいが!
- 時間がないので急いで!
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わ、もう時間かね。では、おしまいに……
そうそう、これは大事件だわ。これのせいで、「あるばいと」しなかんくなったんだわ。 -
「あかだ、大ピンチ!」とありますね。詳しくお話下さい。
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(仲間とのおしゃべりに興じている)
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聞こえますか、フジヱさーん。
- バイト代減らすよ!
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わわゎ、いかんがね。どえりゃあビックリしたわ。
はいはい、失礼しました。では説明するがね。 -
あかだ、大ピンチ!
明治前期、明治政府は財源確保のために様々な税を導入しました。
明治18年7月、政府は「菓子は贅沢品であり体にも悪い」として、製造・販売に5%の税をかける「菓子税」を導入します。津島ではこの「菓子税」が導入されることを知り、大騒ぎになりました。「このままではつぶれてしまう!」と、神社周辺のあかだを売る商店は、なんとかならないかと連日協議しました。協議の結果「あかだはお菓子ではない!だから菓子税は適用されない!」と主張することで一致。これを連名で愛知県へ提出しました。その内容を要約すると以下の通りになります。菓子税除外の嘆願書(あかだ) 明治18年(1885)6月20日
本年、太政官令第11号に菓子税則を定められ、あかだも対象となっております。
あかだは砂糖や蜜などを加えず、米粉を丸めて油で揚げただけのものです。そのため、よい味どころか茶菓子にもなりません。地元の者などは普段これを食べることはなく、他地域から津島神社へ参拝に来る者だけが買い求めます。我々は参拝者の数に合わせて製造販売するだけで、菓子として売ってはいません。
恐縮の至りですが、特別のお計らいにてあかだを菓子と認めないでください。こうした嘆願もむなしく、翌月から菓子税はあかだにも適用されました。同じ頃、全国各地からも菓子税に対する悲痛な撤廃嘆願書が次々提出されました。
こののち津島出身の衆議院議員・加藤喜右衛門(のち初代津島図書館長)が菓子税撤廃を目指す議員連盟に加わり、積極的に活動します。悪法と指摘され続けた菓子税は、明治29年にようやく廃止されました。 -
そうそう、ひどいもんだがね。
あかだは、売り子にとっては生活の糧だぎゃ。こんなもん、贅沢品ではないわ。 -
こんなもん、って……(笑)
はい、よく分かりました。時空を超えた中継、ありがとうございました。 -
はい、幕末・維新の時代の津島からお送りしましたで。
こんでええかね、あんた? おぉ、「あるばいと代」、ありがとうな。