2019年で、杉本健吉が98歳で亡くなってから15年となります。
このたび「本物の杉本健吉の絵を多くの方に観て頂きたい」と、所蔵している方より作品2点をお借りして「杉本健吉、津島を描く。」を開催する運びとなりました。
今回の展示にあたり、杉本美術館には作品画像の提供をはじめ、多くのご協力を頂きました。あらためてお礼申し上げます。
2月6日に、画像提供いただいた「下新田の藤」を追加展示しました。
こちらは個人所有作品です。
この展示は2月末まで展開予定です。
津島を描いた画家・杉本健吉
杉本健吉さん
1905(明治38)年9月20日、名古屋市矢場町に生まれる。
父は人形浄瑠璃三味線師匠の杉本銀次郎。津島・名古屋・大垣・笹島と転校を重ね、津島第一尋常小学校(現在の津島市立南小学校)を卒業。愛知県立工業学校図案科を卒業後、図案家として鉄道会社のポスターなど商業デザインの仕事を手掛けた。
1925年、京都で岸田劉生の門下となり、翌年に「花」で春陽会初入選、1928年に津島町公会堂(橋詰町)で初個展を開催。1949年、東大寺観音院住職・上司海雲師の知遇を受け、奈良の風物を描いたことから“奈良の杉本”と評される。
1950年から週刊誌に連載された吉川英治作『新・平家物語』で挿絵を担当し、高い評価を受けた。
2004年2月10日、98歳で死去。今年、2019年は没後15年にあたる。
さて、杉本画伯は「リュック背負って、イーゼルを提げて」というスタイルで名古屋市瑞穂区の自宅から電車を乗り継ぎ、しばしば津島へスケッチに訪れていたそうです。
杉本画伯が描いたのは、天王川公園、津島神社、そして天王祭と、私たちにとって身近な、そして大切なものばかり。「第二の故郷は津島」と自ら語っていた杉本画伯が津島を描いた作品を幾つかご紹介します。
杉本健吉、もうひとつの“仕事”
今年で没後15年――「杉本健吉」の名前を知らない世代も多いかと思います。しかし、この地域に住む人なら、今も必ず杉本健吉作品を目にしているはず。
「見たことない」とは言わせません!“グラフィックデザイナー・杉本健吉”の作品をまとめて紹介します。
杉本画伯が残した作品は、今も私たちの身近な場所で生き続けています。
ちなみに、このような「図案家」としての仕事は杉本画伯にとって“経済的な基盤”となったそうです。
「津島第一尋常小学校・卒業制作」について
1918(大正7)年、杉本健吉13才の作品を少し解説してみましょう。
1.書を読む。
2.絵を観る。
杉本少年が描いた頃の「津島神社」の写真をご紹介します。
作品と写真を並べてみると、松や社殿など、特徴をとらえて描かれていることが伝わるかと思います。
津島第一尋常小学校
1.津島第一尋常小学校について
写真の校舎は1895(明治28)年に今市場町に竣工したもの。
1500円の建築費(その年の津島町歳入は約3300円)をかけた立派な校舎で、各地を巡察していた文部省次官から「日本一の小学校なり」と称賛を受けたというエピソードが残っています。
当時、津島第一尋常小学校は今市場町にありました。現在、南小のある常磐町へ移転したのは昭和13年のこと。日中戦争の只中での移転でした。
2.思い出を語る
「天王川公園」を歩く。
「天王川公園」は1933(昭和8)年、杉本健吉28才の作品です。
杉本画伯も歩いた懐かしい「天王川公園」。少し散歩してみましょうか。
杉本画伯が、少年時代に目にした風景に近い頃の写真がこちら。
明治時代の天王川は「公園」というイメージから程遠い風景ですが、それは当然!「天王川公園」は1920(大正9)年に開設。来年2020年に100周年を迎えます。
「天王川公園」が描かれた頃の写真。
こちらは現在の風景に近いでしょうか?
「画家」として生きる。
先程の地図を見ると、天王川公園北岸には、杉本画伯が人生初の個展を開催した「津島町公会堂」が確認できます。杉本画伯が人生で初めての個展を開催する場所は「天王川公園」の近くである“必然”がありました。
話は少年時代に遡ります。以下は、杉本画伯の評伝からの抜粋です。
杉本は、小学校の帰り道や住まいの近くの風景を題材によくスケッチに出かけた。その折、津島中学校(旧制)の出身で、東京美術学校卒業後、文展や光風会で活躍していた洋画家の加藤静児の姿を度々見かけたという。ある時、スケッチで一緒になった加藤に思い切って画家になりたい思いを告げて助言を求めた。加藤からは「絵は趣味でやり、生活を支える職業は図案家として勉強しなさい」という言葉が返ってきた。それは画家を夢見る少年にとって予想もしない言葉であったと思われる。
『生きることは描くこと 杉本健吉評伝』木本文平/著 より
加藤静児氏の“助言”が、杉本少年の心にどの程度の重みを与えたかは分かりませんが、この後、愛知県立工業学校図案科に進学。図案家として順調に歩み始めます。
しかし、1923(大正12)年、洋画家の岸田劉生と出会い、その2年後に20才で入門。
“太陽を見るような感じがしました”と後に語った岸田劉生との出会いをきっかけに、「画家」として生きることを決意します。
「津島千本松原」は、小学校時代の作品です。加藤静児氏に出会ったのもこの頃でしょうか?
ハガキの1.5倍ほどの小さな作品ですが、油絵の特質である色を何層も重ねる画法が用いられていて、小学生の手によるものとは思えない出来栄えです。こちらは、現在も美浜町にある杉本美術館に所蔵されています。
1928(昭和3)年、23才になった青年・杉本健吉は人生初の個展を開催します。会場となった津島町公会堂の眼下には、少年時代に通った天王川公園が広がっていました。
ちなみに、この建物の1階は1935年に図書館となります。
絵日記に描かれた地図 ~津島の記憶~
この地図は、95歳となった杉本画伯が、2000年に久しぶりに津島を訪れた際に、当時を思い起こして絵日記に描いたものです。杉本画伯が残された213冊の絵日記の一部から杉本美術館より画像提供頂きました。
画伯が描いた地図を少しだけ覗いてみましょう。
上部に「津島駅」が2つ
昭和6年に統合されるまで、尾西鉄道「津島駅」と名古屋鉄道「新津島駅」、2つの「津島駅」がありました。
当時の地図を見ると、確かに2つの駅舎(赤丸で囲った箇所)が存在しています。
右下「津島第三中学校」の横の部分に「三中に或る年の正月夜大火あり 見に行く」
これは、大正9年1月1日に発生した「第三中学校の大火」を指します。
第三中学校は、現在の津島高等学校のこと。
校舎は完全に焼け落ちてしまい、何も残っていないことが、写真から伝わります。
杉本画伯は絵日記について、このような言葉を残しています。
絵日記は、
昭和二十九年から二〇〇冊を越しました。
毎日描くわけではありません。
とにかく力んじゃダメです。『余生らくがき』より